text by Oto
30年ぶりのTokyo Soy Source
2019年3月16日、30年ぶりのTokyo Soy Sourceだ。
まさか、またやるとは思っていなかった。 きっかけを作ってくれたのは今回もS-kenだった。 はるばる熊本の山奥にある僕が住む農園にまで訪ねて来てくれたのだ。 お互い久しぶりの話を長い間した最後に、 ポツンと、Otoはもう東京に出て来たりすることはないの? もし、行ってもいいよということがあるんだったら Soy Sourceをまたやりたいなと思ってと残していった。 そうかあ、その一言を伝えに来たんだなってわかりました。 粋な心遣いに胸が震えました。 1986年に1回目が始まり、5回目の1988年までやった。 S-kenが言い出しっぺで僕に声をかけてくれて意気投合し、 それから、こだまさんとキヨシに相談し、話がまとまって始まった。 S-ken&HotBomBoms、Jagatara、Mute Beat、Tomatosの4バンドが一応主体となった。 1986年は、ポスト・パンクが模索されてしばらく経った頃だったと思う。 つまりパンクの「後」だ。 パンクを経験していることが大事だった。 パンクを経験していないものはダメだった。 その頃音楽雑誌で話題になっていたのは ニューミュージックのようにふにゃふにゃしたロックやフォークや フュージョンだったろうと思う。 大雑把すぎる言い方だけれど、パンクを経験してない音楽は みんなふにゃふにゃしているように僕には聴こえていたんだろう。 たとえ音楽技術がすばらしい音楽があったとしても、 パンク的な意味が感じられなければどうにも気が乗っていかなかった。 たいした主張もない、小市民的な、あるいは私小説的な内容で、新鮮な言葉もない、 どうにも中途半端で飼いならされたような音楽ばかりだなという印象を持っていた。 それほどパンクを経験していない音楽は全部僕にはアウトだったのだ。 狭いと言えばそれまでだが、「後」を探すフィルターにしていたんだろうと思う。 一方、サブカル雑誌の方はというと、パンク以後の音楽に注目していたのは良かったんだけど、 パンク「後」としてはちょっと方向が違うなあとズレを感じていたのだ。インディーズ・レーベルなどを立ち上げて2、3のアーティストをピックアップして売り出そうと企画していたのだろうけれど、パンク界でアイドルでも作りたいのかなってな具合で、どうにも音楽的なパンク「後」が感じられなかった。8ビートのストレートなパンクだったり、演劇的なロックだったりだった。 僕にとってパンクの「後」の部分は明確に黒人音楽に由来する豊かなリズムだった。 つまり、パンクを経験した豊かなリズムのある音楽だったのだ。 レゲエの映画『The Rockers』やヒップホップの映画『ワイルドスタイル』に興奮していた。アフリカ・バンバータがクラフトワークをサンプリングしたことでテクノ音楽の中のファンク性に興奮していた。戦後の日本のロックがほとんどアメリカやイギリスの影響下にあることにつまらなさを感じ、ワールド・ミュージックに興味が湧き、とくにテクノ音楽を経験した耳で聴くアフリカ音楽に興奮してた。パンクの意味はオルタナティヴとなり、ミクスチャーとなり、日本ならではの異種交配的混合音楽に創造がフォーカスされていった。 S-ken&HotBomBomsが手がけていたリズムはパンクとしてのニューヨーク・ラテンだったろうし、それが「東京ロッカーズ」を主宰していたころからのポスト・パンクのパブ・ロック性とさらに江戸的&港的郷愁が交配され独特のエキゾ・ロックとなっていた。Mute Beatはバンドにミキサーがいるという世界初のスタイルのレゲエのインスト・バンドで、音楽の再構築という意味でパンクなダブ・ミュージックも演奏していた。こだま和文のトランペットの音も言葉以上にメッセージを訴えている完成度だったし、Mute Beatというネーミングがすでに芭蕉的な日本美学の完璧さを称えていた。Tomatosはキヨシのギター・スタイルに様々な黒人音楽のエッセンスが凝縮されているという完成度をもっていたし、チャックベリーのロックンロールがすでにパンクだったという原点回帰を感じさせていた。Jagataraの音楽もレゲエからアフロビート、エレクトリックのマイルスからザッパまで、音楽空間は幅広くなっていた。 冗談抜きで、1986年の頃にはこのような音楽性のバンドが他にはいなかったのだ。この音楽性を日本という立ち位置での独自性のある創造をしていくという意味において「Tokyo」というアイコンがつけられたのだと思う。「Soy Source」は醤油味のソースってことになるんだろうけれど、そういう意味ではなくて、「Soy」はリズムの種類だろう。「Source」はその源。イギリスでの「Return to the source」にも呼応していたのではないだろうか。「Source」は日本ならではのミクスチャーのスタイルを意味しているのかもしれない。 当時はそのあたりに注目してくれる人が誰もいなかったので、いないなら自分たちでシーンを作ってみたらいいんじゃないか、そこから何かが始まるんじゃないか、っていうようなことをS-kenと話したように思う。集まることで今何が始まっているかがわかりやすくなる。メディアにも伝えやすくなる。伝える機会が増えれば、集まってくる人が増えるんじゃないかと思っていた。 バンドは4つだけだったけれど、新しい音楽のシーンはバンドではなく、DJスタイルに現れてきていた。1DJ2MCスタイルのタイニー・パンクスといとうせいこう、ECDとチエコ・ビューティ、そしてランキン・タクシー。ヒップホップやレゲエDJです。 バンドの転換には時間がかかるので、その時間を利用してサブ・ステージでDJスタイル、MCスタイルをやり交互にやっていこうとなった。 出演者がみんなそれぞれの音楽のフロンティアだったように、Soy Sourceを見に来ていたお客さんたちもいろんな分野のクリエイターだったんだろうと思う。音楽をやっている人以上に映像関係や出版関係、番組制作会社などの人たちが多かったような印象がある。みんなそれぞれの分野のフロンティアになっていったのだろうと思う。新しい音楽の夜明けはやがて大きな潮流になっていく前の独特の高揚感に満たされている。 この充満する高揚感の器となったのが湾岸の倉庫をリノベイションして生まれた「芝浦インクスティック」というハコだった。新しい音楽が生まれるときには必ず音楽家たちの創造に呼応してくれる場所が欠かせない。いや、音楽家たちの創造以上に創造していないと器は成り立たないのだから、その包容力のある創造力を持っていたのが「芝浦インクスティック」を立ち上げた人たちだ。松山さん、田中てっちゃん、カっちん、他のスタッフ。Soy Sourceの一回目は渋谷のライヴインというハコでやったのだけど、少々呼吸困難になる感じだったし会場との相乗効果が起きなかったように思う。そこに「芝浦インクスティック」が登場した。芝浦という湾岸フロンティア。最寄りの田町駅からは徒歩で20分ほどかかる少し遠い道のりがワクワクした期待でいっぱいになっていた。都心のビル街の中ではなく、湾岸だ。水がある風景。開放感があり、ゆったりしている。会場も広くなり、ステージの他に2階席フロアがあった。この2階席フロアがサブステージとなってステージとの掛け合いが始まった。このシチュエイションが新しい流れを演出する大きな効果になったと思う。芝浦インクスティックのスタッフみんながオーガナイザーのように共に関わってくれた。出演者とお客さんと会場、みんなが一つになり、良い意味での競り合いが生まれて相乗効果をあげていったのだと思う。 あの頃から30年少しが過ぎた。80年代の日本はバブル真っ盛りだったが、86年は4月にチェルノブイリ原発事故が起きた年でもある。僕はシリアスだとは思ったけれど、正直日本にまで自分のところにまで火の粉は来ないだろうと思い、それまでと変わらず音楽に呆けていた。けれど、振り返れば、その事故をどう受け止めるかで流れはやがて変化していったように思う。その変化は僕と江戸アケミの中にも染み込んできたのだろう。1988年、Soy Sourceは5回目でストップしてしまうけれど、Jagataraは何をするのか、どこに向かうのか、そういう疑問が少しずつ大きくなっていった。動機とヴィジョンが異なれば共に音を出すのが辛くなってくる。江戸アケミがその頃の思いを共有できていたのが、唯一、こだま和文だったのだろう。1990年に江戸アケミが他界し、Jagataraのベスト盤を作ったのだが、タイトルは長らくジャケット・デザインをしてくれていたヤギヤスオさんの提案で『西暦2000年分の反省』となった。この言葉を言ったのはこだま和文であった。アケミとこだまさんが出会いお互い大切な友達になっていったのもSoy Sourceがきっかけだったんだろうと思う。人の暮らしは音楽だけでは成り立たない。パーティで浮かれるだけでは成り立たない。江戸アケミの口グセが「出どころ」だった。その「出どころは何なんだ?」がアケミが人と時代を読み取る道具だった。新しい流れはしばらくもすれば拡散していく。Soy Sourceも少しずつ拡散していった。 時は流れ 人はまた去る 思い出だけを残して。 今や地球温暖化もさらに加速化し、リッピングポイントを超えてしまう定めにきてしまった。悔い改め反省し行動に移せなかった結果だ。まさか日本では起きないだろうと思っていた原発事故が福島で起き、ついに地球大被爆時代に入ってしまった。深い無明の闇だ。 音楽なんかやっている時代なんかじゃないけれど、それでも必要な音楽もある。 最初にSoy Sourceを始めた頃と現在の状況は大きく異なるけれど、それでも必要な集まりになるといいなと思う。もう一人一人が生きのびる最前線に立たされている。 ******************************** 今は「午前4時少し前」だ。つまり一番闇が深い時。闇は深いけれども確実に夜明けが近くなってきている。闇だけにとらわれて苦しむのか、苦しい中でも新しい夜明けを迎える準備をしていくのか、「心の持ちようさ」だと思う。 そんな思いで、30年ぶりのSoy Sourceをみなさんと楽しみたいと思います。僕はなかなか「Tokyo」には出てこない暮らしをしているので、この機会にみなさんと会えることがうれしいのです。どうぞよろしくお願いします。 |
Ⓒ2018 TOKYO SOY SOURCE 2019