Interview s-ken×Oto
TOKYO SOY SOURCE 2019
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s-ken×Oto​

東京ソイソースの3年間は奇跡的な時間だったんじゃないかな
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来たる東京ソイソース復活に向けてのカウントダウン企画。第1回目は東京ソイソースの言い出しっぺ同士による対談です。​

● 昨年、エスケンさんが熊本のOtoさん宅を訪ねて、それが久しぶりの再会だったんですよね。

Oto うん。エスケンが新しいアルバム『Tequila the Ripper』を出したのは、僕もすごい嬉しくて。ホットボンボンズがみんな現役で演っていて、ますます円熟味を増していて、これからブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブみたいなバンドが日本でも出てくるんじゃないかって面白さがあったんだ。それで、そのアルバムの中の『千の目、友にはふさわしき贈り物を』って曲が、これまでの人生に刺激を与えてくれた友だちにエールを送るような内容で。それは天国に行った人も、この世にいる人も含めて。その中のひとりとして僕のことも思い出してくれたんだと思う(笑)。

エスケン まあ『Tequila the Ripper』のリリースや回想録『都市から都市、そしてまたアクロバット』(河出書房新社)を書きだしたのがきっかけでしたね。それで、熊本に行って山奥に住んでいるというOtoに電話して「これから行くけど、なんかほしいモノあるか」っ言ったら、なんと「シュークリーム買ってこい」って。

● Otoさんビックリしたんじゃないですか? 何十年かぶりに急にエスケンさんから電話がきて。

Oto まさかエスケンが熊本県の農園にまで来るなんて、僕は想像してなかった。だけど、これは僕自身の価値観の話だけど、僕自身は今、音楽を止めている気は毛頭なくて。さらに深く、リアリティのあるギターを弾きたいと思ってこの生活に入っているので、自分なりに最前線でやっているつもりで暮らしていて……やっぱり僕には「JAGATARAをやっていた」っていう現実があるんだよね。そこで(3.11の)福島の事故が起きたんで、その時に自分なりに「どういう道を辿るんだ?」と思ったときに僕はこっちを選んだ。だけど生活を切り替えたとか、そういうつもりは全然なくて、環境のことをカルチャーにするっていうのが自分のテーマとしてあって。それを口だけで言うミュージシャンの人もいるよね。それはそれでありかもしれないけど、でも実際に現実をどうにかしていかなきゃいけないってところまで踏み出す人がなかなかいなくて、僕はそう思ってしまったから踏み出した。だから自分なりには「ここが音楽の最前線」っていう気持ちがあって、ここにアクセスしてくる友達って誰がいるんだろうな? って思っていたら、最初にやって来たのがJAGATARAの南(流石)。たしか2014年くらい。で、次に来たのがエスケン。

● ​それが昨年(2017年)の夏。

Oto そう。それで、そういう縁っていうか、物語を感じたんですよね。というのは、エスケンはそう思っていないかもしれないけど、(東京ソイソースの前にエスケン氏が牽引した)東京ロッカーズというムーブメントがあって、僕はそのシーンに影響を受けて音楽を始めて、それからJAGATARAとの出会いがあって、東京ソイソースというイベントをエスケンたちと始めて、それから時代が流れ、福島の原子力発電所爆発が起きた時に、僕の中では9.11の事件以降入り込んできた「環境」という要素が音楽に強く関わってきた。今、多くの人たちにとってカルチャーの中に「政治」や「経済」という要素が影響してきていますよね。
日本って、80年代におちゃらけてしまったというか。消費ゾンビーになってしまった。でも欧米では常にそういう社会的な影響が音楽に入っていたと思うんです。80年代パンクの後、スタイル・カウンシルなんかも政治的な部分はもちろん入っていたんだけど、日本ではメッセージが削除されてただのオシャレな音楽みたいな感じで売られていたというか。でも、日本でもいろんな問題がたくさん起きて、僕の中にも徐々に政治や経済、環境のことが音楽の元になる自分の生き方・暮らし方に突きつけられてきた。ヒバク時代をどう生きるのか、これは自分のライフスタイルを変える必要があるなと。「よく見ろ お前の足元を お前にエサを与える その汚い鎖を食いちぎってしまえ!」(『Hey Say』)ですよ。で、奥山最前線暮らしになるんですけどね(笑)。なんたって水の出どころだからね。
だから、そんな僕にアクセスしてくる人は、物語のキャスティング的にはきっと何か理由があると思っていて。エスケンもたぶん、無意識なんだろうけど、でもなんかOtoが引っかかるなあ、Otoが呼んでる気がするぞ、くらいのことじゃないのかな、と思ったり。


エスケン 僕は10年前に「エスケンは過去を振り返らない」って言ってたんだけど、やっぱり歳を取って、自分の頭がまわるうちに過去を振り返ろうと回想録を書いている時に、音楽的にはかなりパンキーな部分と、アフリカを経由したようなリズムのバリエーションがその核にあると再認識したのね。で、そのルーツを辿っていくと、自分のアルバムだと『ジャングル・ダ』から『パー・プー・ビー』に移る頃、まさにOtoに出会った頃なんですよ。で、今考えてみると、非常にパンキッシュなJAGATARAってバンドをファンキーというかアフロビートというか、そういうものとハイブリットさせて、「アフロパンク」という概念に一番早く到達していたのがOtoだったと気が付いた。で、もうひとつ気になったのは、熊本の山奥に入っちゃって、熊本地震の時も心配になって電話したんだけど「市街から離れてるんで大丈夫だよ」って言っていたから……今のOtoの生活が想像つかなかったんです。そういう意味では、もう音楽を忘れちゃったんじゃないか? とか、あと自分の回想録執筆のために、いろいろ話を聞きたいなと思って熊本に行ったんです。
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「冥土の土産」

● そのときはおふたりでどんな話をしたんですか?

エスケン  東京ソイソースのことはかなり話しましたよ。やっぱりあのイベントはすごかったなと。それと、みんなに会ってみたいもんだなと。一応、主力になった(松竹谷)清とこだま(和文)さんとOtoと俺は健在だから。ひとりでも欠けるとなんとなく東京ソイソースと名乗れないようなところがあるんです。だから、冥土の土産くらいの感じで、みんなで一緒に集まって、東京ソイソースを1回くらいは出来るんじゃないかって言って東京に帰ってきたんですよ。そしたらいつの間にか、 " 東京ソイソース復活か? " みたいな噂が飛んでいた。

Oto JAGATARAに関して言うと、1990年に江戸(アケミ)さんが亡くなっているんで、2020年にはそれから30年経つんです。もちろん東京ソイソースがストップしてからも今年でちょうど30年かな。その間に、僕の中で江戸アケミの言葉はどんどん深い意味を持ってきていて、未来へ繋がるすごく重要な内容も含んでいて。だけど、たとえばBO GUMBOSなどは雑誌やWEBの音楽サイトなどで特集されているのを見かけたりして、若い世代が触れる入り口があるんだけど、JAGATARAに関してはほとんど見かけなかったんです。ネット上での楽曲配信もJAGATARAはしていないんで、Apple Musicでも聴けない。
今、世界的にはブラジルの人がアフロビートを解釈して面白い音楽を作っていたり、アラブの音楽家がアフロビートを取り入れてミックスしたり、ものすごいことになってるのね。それで、たとえばApple Musicに「はじめてのアフロビート」みたいなプレイリストがあるんだけど、そこにJAGATARAが入っていたらもろオンタイムな感じなわけ。「なんだこの日本のバンドは!」みたいなことになるだろうから、本当はそこらあたりのこともちゃんと発信すべきだなっていうのもあって、若い人に何か伝えられる場面があるならやってみたいなというのがあったんです。


エスケン    うん。僕がさっき「冥土の土産」って言ったのはね、アルバム『Tequila the Ripper』もそんな気分で作り始めたんだけど、いつの間にか周りが「エスケン復活」ってことにしてくれって感じになって、「冥土の土産」のはずが「復活」になっちゃったんですよ。東京ソイソースも、発端は「冥土の土産」気分でOtoと話してたんだけど、いつの間にか「復活」ってイメージで周りが期待し始めているというか。
たとえば、この間いとう(せいこう)くんと対談したら、東京ソイソースにすごく思い入れがあって、海外に伝えたら面白いんじゃないかと未来的なことを言うわけです。たとえば葛飾北斎のクリエイティビティを継げる人間って、今の日本よりも海外にいるのかもしれないって彼が言ったんです。だから僕らにとっては冥土の土産かもしれない、でも周りのみんなにとっては復活なんですよね。やっぱり当時観ていた人たちの期待が、東京ロッカーズ以上に東京ソイソースは凄い。


Oto        今、いとう(せいこう)くんの話があったけど、むしろ今回やるにあたっては、東京ソイソースの4バンド+当時の出演者たちは素材として扱われて、いとう(せいこう)くんだとか、北尾(修一)くんだとか、えんどう(そうめい)くんだとか、当時お客さんとして衝撃を受けた人たちが今の若い人たちに「こんな面白いものがあったんだよ」っていうパスをつなぐ、そっちが中心になったほうがいいと思うんだよね。その上で、4バンドはそれぞれ思う存分楽しめばいいと思うんだけど、「つなぐこと」が中心かなと思う。海外に「つなぐ」のはいいね。この30年の間に情報環境は変わって、今はみんな国境を越えているから。

● もちろん協力できることは何でもします。

エスケン ところで、客として来ていた北尾さんの当時の思い出を語ってくださいよ。

● 上京したてで、ちょうど18、19、20歳だったので、オールナイトのライブはたくさん行ってましたけど、東京ソイソースは自分の中で別格でした。実は第1回は観ていないんですけど、第2回をインクスティック芝浦ファクトリーで観て、人生観が変わるくらい衝撃を受けて(笑)。それから第5回までは皆勤賞です。出演者のステージがやばかったのはもちろんですが、会場の雰囲気が独特で、とにかくお客さんのレベルがはんぱなかった。本当にみんなかっこよかった。

Oto それね~。南(流石)も、踊りの仕事の現場で、東京ソイソースを観ていたディレクターやスタイリスト、ヘアメイクの人たちにたくさん会うらしいんですよ。だから、ミュージシャンに限らず、後に面白い仕事をする人たちがたくさん集まっていて、北尾くんも雑誌『クイックジャパン』を作るようになって……。

● はい、Otoさんにもいろいろご協力いただきました。

Oto ねえ。こだま(和文)さんの連載が毎号載っていたり、JAGATARAや MUTE BEAT再発のきっかけを作ってくれたり。

● それで思い出したんですけど、昔フィッシュマンズの佐藤伸治さんにインタビューした時に、佐藤さんも東京ソイソースに毎回行っていたらしくて。佐藤さんと自分は同い年なんですけど、初対面で東京ソイソースの思い出話でえらい盛り上がりました。

Oto        MUTE BEATからフィッシュマンズへ、というのも新しい流れだったもんね。

エスケン 今の北尾さんの話で一番面白かったのは、バンドもかっこよかったけどお客もかっこよかったっていう。だから、僕らはステージに立ってるから分からないけども、お客同士のある種の連帯感があったんじゃない?

● ありました。

エスケン この間のいとう(せいこう)くんとの話で面白かったのは、江戸時代のクリエイティブな文化を未来的に引き継ごうぜみたいな話の流れで、江戸時代にはそうした文化を支持したクオリティの高い大衆がいたと。そういう意味では、東京ソイソースの場合は、ダブがあって、レゲエがあって、パンクからニューウェーブの流れがあって、ヒップホップが出てきて、すべてが揃った。そんな雰囲気がたまたま3年間くらいあったわけでしょ。で、その1年くらい前までは(江戸)アケミが病気で東京にいなかったわけでしょ。後から振り返ると、なかなか奇跡的ですよね。東京ソイソースの3年間は奇跡的な時間だったんじゃないかなと思っている。あと、ゲストで出てくれた人たちもすごかったんだけど、仕掛けてくれた人たちがいるわけじゃないですか。エディトリアルスタッフだったり、デザイナーだったり、PAだったり、そういうスタッフたちも「なんか面白いことやろうぜ」って気分に満ちていたよね。

Oto        本当そうだね。


「ふたりの出会いから東京ソイソース誕生まで」

​● そもそも東京ソイソースはどういう経緯で始まったんですか?

Oto 僕は当時、『宝島』っていうサブカルチャーの雑誌を面白く読んでいたんだけど、その『宝島』がインディーズ音楽の世界に触手を伸ばしてきたんだ。JAGATARAが『南蛮渡来』を自主制作した時は、販売店も自分たちで探さなきゃいけなかったし、その中でVIVID SOUNDとかブラックミュージックのレコードを細々と販売していた人たちのネットワークと結びついたり、プラス新たに自分たちが見つけたパンク好きなお店があったりとか、そんな感じだったんだけど、そこに『宝島』が「インディーズは商売になる」ってことで現れて、お金とメディアがあるから当然宣伝力もあるし、狭い世界で主導権を全部持ってかれる気配を僕は感じていて、それはつまんないなと。だから、逆に『宝島』誌面で話題になるようなことをこちらから発信したら、『宝島』も情報を載せざるを得ないだろうから……というようなことを思っている時にエスケンと出会った気がします。
で、『宝島』のピックアップするバンドの傾向がそれなりにあって、そこには僕が楽しいと思うような、リズムが豊かな感じのバンドはあんまりなくて。で、自分が好きなバンドを見ていくとエスケンのバンドだったりTOMATOSだったりMUTE BEATだったりがいて、JAGATARAも僕が入ってからはダブだアフロビートだみたいなことを言い出して、ちょうどいい感じにセットできたんじゃないかな、というタイミングだった。


エスケン 道筋的には僕も同じで、パンク、ニュー・ウェーブからアルバムをリリースするようになったんだけど、もともと聴いていた音楽の中にはブガルーやレゲエ、ニューオーリンズのファンクとかがあったのね。それで、たとえばトーキング・ヘッズは、ある時期からアフロビートになったりPファンクを取り入れたり、ザ・ジャムがスタイル・カウンシルになっていく流れがあって、「俺の考えていることは大丈夫だ、時代と同期している」って確信があって、秘密裡にホットボンボンズを結成したんです。そういうタイミングでたまたまOtoと非常に仲良くなって、1杯飲んで話す機会が多くなったんです。で、「8ビートだけのバンドは面白くない」「だったら一緒にやってみよう」ってことになった。バンドだけのサクセスストーリーではなくってある種のシーンっていうか、当時はワシントンDCにGO-GOっていう音楽が出てきていたんです。それで、4つか5つ有名なバンドがあったんだ。

● トラブルファンクとか、チャック・ブラウン&ソウルサーチャーズとか。

エスケン    そうそう。俺はソウル・サーチャーズが一番好きだったんだけど、そういう流れがあって、あのくらいのことだったら俺たちにも出来るんじゃないか。東京の真の意味でのストリートシーンみたいな、ある種の傾向が示せるんじゃないかってね。言葉じゃなくて感覚的にそうひらめいた。

● 企画書があって、みたいなことじゃなく。

エスケン ないですないです。感覚的なもんですよ。

Oto 4つのバンドだけじゃなくて、それこそECDとか、CHIEKO BEAUTYとか、ランキン(・タクシー)さんとか、第1回にはTINNIE PUNX(藤原ヒロシ、高木完)が出たりとか、とにかく様々なものが同時に噴き出た時代だったので、それらをメディアが扱うよりも先に自分たちで集まって楽しんでいた。

エスケン 東京ロッカーズは、自分がニューヨークのCBGB(ライブハウス)で、パンクのライブハウスサーキットを観た時に「2、3人が面白いことをやればこういうシーンが作れるんだ」って感じて、ある種の天命じゃないけど、孤独を感じながらやってたんだけど、東京ソイソースの場合は、もちろん俺とOtoが言い出しっぺではあるんだけど、今思っても不思議なことにブワーっと人が集まってきたんですよ。それは、ヒップホップであり、レゲエであり、ダブであり、パンクであり、GO-GOであり、パブロック的なエルヴィス・コステロとかイアン・デューリーみたいなものも入ってるでしょ。でも、それらの影響を受けつつも、東京的な何かが出てきているような感じがしたんだよね。

● 確かに、東京ソイソースにはいろんなものが混在していました。

エスケン あと面白かったのは、あのハコ。インクスティック芝浦ファクトリー。フロアの2階が楽屋になっているから、他のバンドのライブをそこから演者たちが観ているわけですよ。

● ​ええ。客が後ろ振り向くと、出演者が2階にずらっといました。

エスケン JAGATARAが良い演奏すると、「次(ホット)ボンボンズだから、俺も頑張らなきゃいけないな~」っていう、そういうスリリングな " 張り " がありました。

Oto 本当、インクスティックのパワーはでかい。てっちゃん(田中哲弘)を筆頭にインクスティック芝浦ファクトリーのスタッフたちがとにかく素晴らしかったから。

エスケン ハコもすごかったし、プロデュース、アドバイザー的な意味でいえば先頭きってやってくれた川勝(正幸)さん、小野俊太郎。みんながどっと集まってくる。MUTE BEATのマネージャーだった石井(志津男)さんも、ご意見番でしたね。

Oto 本当すごい人たちが集まってたもんね。

エスケン 今回も、スタッフは大変だと思いますよ。かなり気合入れないと出来ない。4バンドのメンバーを集めるだけでも大変な人数になるわけだから。

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「江戸アケミについて」

​● エスケンさんから見て、江戸アケミという人はどんな印象でしたか?

エスケン 実は今日、沼田元氣と久しぶりに話したんだけど、彼はエスケンと言えば『PINHEAD』(エスケン編著 / CBSソニー出版 / 1983年)だって言うんですよ。『PINHEAD』という僕が編集した雑誌があるんですけど、沼田元氣曰く「編集というクリエイションから見ると、あの雑誌は非常に面白い」と。で、その雑誌の中で江戸アケミをフィーチャーしてるんですよね。僕は江戸アケミの存在を見て、それまでの日本のミュージシャンなら隠そうとする生活感、たとえば普段はどこでアルバイトしてるとか出さなかったじゃないですか、でもニューヨークのパンクシーンもそうなんですけど、江戸アケミは隠さないんです。日本のミュージシャンでこういうストーリー感を放つ存在はいないなってことで、誌面でクローズアップしたんです。だから、僕の印象は、もっと内に秘めていたものや彼の言葉のダイナミックなグルーヴがこれからあふれ出てくる絶頂期を前にして亡くなった、非常に残念だったなと。俺は70歳でアルバム出したけど、70歳の江戸アケミも見てみたかった。今生きていたら何歳?

Oto 65歳じゃないかな。

エスケン 彼が65歳でやっている音楽を思い浮かべると、今の音楽シーンで何にも誰にも当てはまんないんですよね。それを見てみたかった。

Oto (江戸)アケミが高知での療養を終えて戻ってきた86年に、東京ソイソースの1回目がライブインであって。それから87年、88年まではまだ薬を飲みつつ、日常生活では口が動かない、運動神経が不自由な感じで暮らしていた中で、でもライブになったら身体が動くんだよね。
で、最後の方とかは今にしてみれば、(江戸)アケミは日本という国の気持ち悪さに苛まれていて、ある種アンドレイ・タルコフスキー映画の主人公みたいな状態になっていたっていうか。江戸アケミの死とタルコフスキー映画はすごいダブってしまうんです。特に映画『ノスタルジア』の中の詩人ドメニコです。そのくらい時代の中で彼の言葉は重要だったっていうか、例えばイアン・デューリーの『Sex& Drugs&Rock&Roll』を日本語で演った時に、「経済成長ありがとう」って歌ったの。そのときに「アケミ、経済成長ありがとうって、そりゃ経済成長はいいことだから、それをシニカルに言っても意味届くのかな」とか、僕なんかそんなこと思いながら演ってたんですよ。何もわかっていなかった。でも、アケミは「そうではない、気持ち悪い世界がいま日本で起きてるんだ」ってことをいち早く分かっていて、それ故にタルコフスキー映画の主人公みたいに浮いてしまって。というか分裂症にまでなってしまったわけだから。でも、同じような居心地の悪さを感じている人がお客さんの中にもいて、その人たちはアケミに対してものすごくシンパシーを感じていた。
そういう観点からすると、88年くらいまで続いてくると、アケミには東京ソイソースが商業主義的に思えたと思うんだよね。盛り上がればいい的な無自覚な無意味さかな。で、それは東京ソイソースに対してだけじゃなくて(バンドメンバーの)僕らに対してもあったわけで。死ぬ直前には「OtoはJAGATARAをどうしたいんだ?」って問いかけが僕にも直接あったし。東京ソイソースに対しても「あんまりもう接点ないんだ俺は」っていうような立ち位置にいっていたんだ。で、彼が自分の思いを誰と共有できていたのかな? って思うと、それはMUTE BEATを辞めたこだま(和文)さんただひとりだけ。
でも、その後、時代はどう流れたのか考えると、あの頃に江戸アケミが放っていたフレーズや内容がめちゃくちゃ鋭いわけです。「あんた気にくわない」も「見飽きた奴等にゃおさらばするのさ」(『でも・デモ・DEMO』)も、「見飽きた奴等」とは誰だったのか? あんた気にくわないの「あんた」は誰なのか? それはものすごく鋭いわけ。『TANGO』の歌詞だって「ゴミの街に埋もれた食いかけのハンバーグ/あんたの手から落ちてまわり巡って/地面に吸いとられた」、サビのフレーズが「ひとつ、ふたつ、みっつ数える前に 天国へ」だからね。もう人間が犯した罪に懺悔と救いを求める詩なんだよね。デビュー作ですでに。今、世界にもひとりひとりの人間にも救いが必要でしょ? まんまタルコフスキーの世界と重なるんだよね。アケミの言葉は切なすぎて途方もない、どうしようもない、しかも美しいという。


エスケン 東京ソイソースに絡んだ人で、亡くなった人はその他にもかなり多いんだ。スタッフ的に言えば川勝(正幸)くんも亡くなったし、(江戸)アケミも亡くなったと同時に、ナベ(渡邊正己)も亡くなったし。

Oto  篠田 (昌已)くん、松永孝義、朝本浩文も。

● ええ。当日は出演するメンバーだけでなく亡くなった方々ともつながる場にできればと思っています。では最後に。おふたりそれぞれ、当日に向けての意気込みをお願いします。

エスケン 今、4バンドが集まってどういう化学反応が起きるかっていう。あれから30年経って、あの時に生まれた人が30歳でしょ? そのジュニアたちも含めて、うまく情報をキャッチして会場に来てほしい。東京ソイソースが面白かったのは、出ていたバンドだけの話じゃないから。来た人たちの力で当時の雰囲気が少しでも出ればいいなと思ってますけど、そのへんは予想がつかないですね。でも、たぶん出るんじゃないかなと思ってます。乞うご期待。

Oto JAGATARAは、演奏時間の関係で、そんなにたくさんの曲が出来るわけではないんだけど、昔のJAGATARAをなぞるというよりは「今の音」になると思う。他の出演バンドもそうだと思うんだけど、それが楽しみです。みんな円熟してますます進化しているから。それと、僕は今作ってるお茶を持っていくんで、会場のどこかで「東京ソイソースパッケージ」を販売しています(笑)。

● ​買います(笑)。今日はおふたりともどうもありがとうございました。
interview&text by 北尾修一(百万年書房)
s-ken
1947年東京大森生まれ。71年、作曲者としてポーランドの音楽祭に参加、世界を放浪後、音楽雑誌『ライトミュージック』編集スタッフとして働き75年海外特派員として渡米。ニューヨークに滞在中、CBGBなどのニューヨーク・パンクロックシーンに刺激を受けて、帰国後、伝説のパンクムーヴメント「東京ロッカーズ」を牽引。デビュー・アルバム『魔都』(81年)、セカンド・アルバム『ギャング・バスターズ』(83年)を経て、パンク、ファンク、ブガルー、レゲエなどをハイブリッドさせたs‐ken&Hot Bombomsを結成、80年代のクラブシーンを代表するエポックなイベント「東京ソイソース」に参加しつつ4枚のアルバムを発表。91年以降は音楽プロデューサーとして活動。
Oto
[じゃがたら / サヨコオトナラ / アンナプルナ農園 / JayMaファクトリ]
​80年代はロックバンドJAGATARA、日本初の生ヒップホップ・バンドのビブラストーンで活動。アフリカ音楽をベースとした世界の黒人音楽と民族音楽のミクスチャーに入魂。90年代は雷蔵(a.k.a. あがた森魚)、国本武春(浪曲)、喜納昌吉、小泉今日子、他プロデュース作品多数。04年以降「持続可能な環境」をキーワードにサヨコオトナラ、ムビラトロンのギター弾きとしてローカリゼイション探訪となる音楽の旅を始める。05年、サヨコオトナラ『ワと鳴り』発売、10年サヨコオトナラ『トキソラ』発売。3.11以降、熊本のアンナプルナ農園にて、無農薬のお茶を作りながら自給的な農作業をベースとした森の暮らしにシフト。11年5月、農園の家族バンド「モリノコエ」でCD『Grounding Songs』を発売。14年11月、副題に「じゃがたら~森へ」と題した自伝本『つながった世界』を発売。18年、オトラビのメディア拠点「JayMaファクトリ」を準備中。アンナプルナ農園の「花鳥村の自然緑茶」と「花鳥村のほうじ茶」は毎年毎日絶賛発売中。

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